気まぐれ日記 2012年11月

2012年10月ここ

11月1日(木)「母が肺炎・・・の風さん」
 この間から、ますます忙しくなる予感がしていた。
 幸い体調はいいので、スケジュールにどんどん詰め込んであった。
 昨日作成したプレゼン資料で朝から部長に報告し、仕事の方向に了解を得た。アドバイスももらい、すぐに資料に反映した。それでトップへ説明するのだ。
 先月の業務報告書も作成した。
 午後は有休にして帰宅し、遅れているビジネススクールの予習と執筆にあてた。
 夜、兄から電話があり、母の具合が悪いという。肺炎になったらしい。
 書斎のZライト(大学時代から使っていたもの)が落下して壊れた。

11月2日(金)「血圧セーフ・・・の風さん」
 本社の診療所へ行き、高血圧の経過観察を受けた。
 定期健康診断でとんでもなく高い数値が出ていたので、ちょっと不安だったが、ストレスが解消したせいか、元に戻っていて、医者から
 「ギリ、だね」
と言われた。再び薬のお世話になるギリギリセーフだった。
 今日も午後有休である。遅れているビジネススクールの予習と執筆にあてるつもりだった。
 帰宅したら、楠木誠一郎さんの新刊『新島八重と新島襄』(PHP研究所)が届いていた。
 大河ドラマの待ち伏せ出版だ。やるなあ。
 戊辰戦争時の会津藩のことは、いつか小説にしたいと思っているので、これで勉強しておこう。
 もう一つ郵便物が届いていた。
 11月18日(日)の日商簿記3級の受験票である。
 ああ、受験勉強をやれるだろうか?
 明日のビジネススクールの予習に取り組んでいるうちに、どんどん夜が更けて行く。
 
11月3日(土)「ビジネススクールの後半戦・・・の風さん」
 ビジネススクールに着いて、先生のご先祖様が奉納したかもしれない算額に関する調査報告をした(何やってんだか)。
 現存していないのではないかという話をしたら、今度帰省したときに写真を撮ってくるとのことだった。
 できる限り積極的に発言することで講義を終え、バタバタと家路についた。
 今日は文化の日で、ワイフのバースデーでもある。以前からケータイをプレゼントすると宣言していたので、帰りにショップでカタログを入手した。
 ただし、購入は1ヶ月くらい先になりそうだ。
 とりあえず御座候(大判焼の仲間)を購入して帰ることにした。
 今夜も執筆を諦めて、明日のビジネススクールの準備(レポート)だ。

11月4日(日)「初めて打ち上げをパス・・・の風さん」
 今朝の5時過ぎまでレポートに取り組んで、明け方2時間弱仮眠をとった。
 が、目覚めた時、あまりの寒さで体が震え、また死にかけた(親父も寒さが原因で心不全になって死んだに違いない。私もそうやって死ぬ気がする)。とにかく心臓が苦しかった。
 今日は午前中に業者が来て、次女の部屋のエアコンが更新される。約10年使用して壊れたからだ。
 ビジネススクールの4日目なので、終われば打ち上げになる。
 しかし、執筆が遅れている私は、初めて打ち上げをパスした。
 帰宅したら、エアコンがちゃんと取り付けられていた。
 明日は短編小説の締め切りで、またまた有休にしてあるが、とりあえず疲労をとるために、ひと眠りすることにした。
 (これだったら打ち上げに出ても同じだったかも)

11月5日(月)「福島行きを決心・・・の風さん」
 短編小説の締め切りが今日だったが、とてもできそうになかったので、先週末、苦肉の策で有休にしておいた。
 しかし、昨日、また兄から電話があり、「オフクロの顔を見ておいた方がいい」と言う。できれば家内も一緒に、とまで言われたら、これは相当に危険な状態に違いない。
 家内も「行かなきゃ駄目だよ」と強く言うので、私は決心した。
 とにかく死に物狂いで小説を書き続け、明朝までに出版社へ送る。
 そして、明日から福島へ行こう、と。
 家内も一緒に行く、と言ってくれた。

11月6日(火)「福島に着く・・・の風さん」
 ぶっ続けで小説を書いたが、夜が明けてもできなかった。
 小説ができてなくても、やらねばならないことがあった。予定外の有休なので、会社の仕事の調整である。
 今日から連日イベントが目白押しなのである。
 会社に電話して、まず今日の分の仕事の調整をした。
 私がやる予定だったものを、中止にしたり、延期にしたり、同僚に代行してもらったり、である。
 電話をし終えたら、もう後ろを振り返っている余裕はなかった。
 再び執筆である。
 昼近くになり、とりあえず最後までたどり着いたところで、原稿枚数をざっとカウントしたら、依頼の25枚に対し、36枚ぐらいありそうだった。
 締め切り1日遅れを詫びつつ、これから削ります、とメールに書いて、とりあえず出版社へ送り、急いで福島へ行く準備を始めた。
 今度は旅行の準備である。
 実はけっこう大変だった。うっかりすると、長期滞在になるかもしれないからだ。
 家内も夢中で準備して、一緒についてきてくれた。
 留守番になる次女のことや、日中取り残される2匹の猫のことなど、うまくやってくれた。
 郡山に着いたのは午後8時ころで、兄に迎えに来てもらい、見舞いは明日にした。
 家内と二人で入った母の家は氷のように冷えていた。

11月7日(水)「母に再会・・・の風さん」
 実は、昨年の措置入院以来、母に会う勇気が湧かなかった。
 いくら重度の認知症とはいえ、母をだまして入院させたのだ。いやがる母を。
 最後は母に怒鳴られた。殴りかかってきた母を、全身で受け止めねばならなかった。
 医者も認め、兄も覚悟した措置入院だったが、母の脳の一部は健全なのだ。その部分が、抵抗していた。
 限界とは思いつつ、これまで一度もこんなことはしなかった私は、ショックで、立ち直れなかった。
 その強烈な記憶がまだ私を支配していた。
 兄が運転する車で、家内と一緒に病院に着いた。
 とても一人だけでは来れなかったろう。
 病床の母は、著しく老化し、やつれ、苦しそうな呼吸をしていた。
 私がベッド脇に座り、私の姿を視界にとらえても、母の様子に変化はほとんどなかった。
 認知症が進んで私をはっきりと認識できていないのか、あるいは視力が衰えているのか、それとも苦しくてそれどころでなかったのか、よく分からない。
 私は苦しむ母の手をとり、握ったり、さすったりした。ひからびた枯れ枝のような手だった。
 私も家内も涙がとまらなかった。

11月8日(木)「いったん帰宅・・・の風さん」
 昨夜、家内は泣く泣く帰宅し、私がもうひと晩、こちらへ泊まった。
 母の家の寒さはこたえたが、苦しんでいる母のことを思えば、そんなことは問題ではなかった。
 今日は朝から病院に行き、ずっと母に付き添った。
 昨日より、何となく母は元気で、その証拠に色々と我がままを主張した(酸素マスクを外そうとしたり……)。
 昨日は、主治医の説明を家内や兄と一緒に聞いたが、肺炎だけでなく、心臓も腎臓もかなり悪く、集中的な治療ができないとのことだった。中でも、腎機能が著しく低下しているため、オシッコが出ず(体がむくんでしまい)、点滴を大量にできないのだった。
 今日の午後、主治医の回診があったが、我がままな母の様子を見て、「元気ですねー」と驚いていた。そんなこと言うくらいしか手がないのだ。情けない話だが、92歳という年齢を考慮すれば、仕方ない気がした。
 看病の途中で何度か休憩を兼ねて、渡り廊下を通って外来へ行った。
 途中でちび助やペコそっくりの猫がいたのには驚いた。さらに、黒い毛だがシルバーそっくりな猫もいた。
 外来では、缶コーヒーを飲みながら、昨年の春、母と眺めた、満開だった桜の木を眺めて、人生をしみじみと思った。
 決して安心できる状態ではないが、小康状態とも言える母の様子を見て、私もいったん帰宅することにした。
 不安定で心配な状態でもいいから、少しでも長くこの状況が続けば、恐るべき母の生命力で持ち直したり、薬の効果で病状が安定したりするかもしれないし、結果として長生きしたことになる。
 そう自らに言い聞かせての帰宅だった。

11月9日(金)「来週へ向けて準備の日・・・の風さん」
 昨日今日と、会社の出張計画があったが、事情を説明して先方に行けない可能性を伝えてあったが、その通りになってしまった。
 今日は出張せずに研修所に顔を出して、可能な限りの仕事(私がやるべき)をし、その後、本社へ行き、さらに旧職場にも行って、必要な仕事をこなした。
 こう書くと、「風さんはよくやってるな」と思われてしまいそうだが、会社の同僚や関係者そして家族が、さまざまな局面でサポートしてくれているから、私は私の最低限のことだけやっていられるのである。感謝感謝感謝。
 週末は作家としてのスケジュールを組んである。1泊の京都旅行で、日曜日は講演をする。
 今夜はその講演の準備の続きだ。
 来週は、母が最も可愛がった長女を連れて見舞いに行く予定にした。
 
11月10日(土)「日文研ハウスに宿泊・・・の風さん」
 以前から楽しみにしていた京都である。
 旅行とは言っても観光ではない。
 土曜日は、吉田光由関連の史跡取材、日曜日は日文研での講演だ(宿泊は日文研)。
 しかし、講演スライドは未完成だったし、何と言っても、短編小説がまだ迷走状態だった。
 なぜ短編小説が迷走になってしまったかと言うと、依頼の25枚に対して、えいやっと36枚ぐらい書いた気になっていたのが、よくよく計算してみると60枚近い原稿で、大幅削減が必要になったのである。
 それで昨夜もへろへろ状態になりながら悪戦苦闘していた。
 それで、今日の取材をパスしようかと思ったくらいである。
 結局、現地を案内してくれるN先生へ、太秦(うずまさ)で合流する時刻を1時間遅らせて(10時を11時へ)、あとは予定通りに行動することにした。
 最寄りの駅から乗った名鉄電車の車中で、ケータイを使ってのぞみの指定席をゲットした。
 その指定席は3人掛けの窓際だった。
 私はアプリルを取り出して仕事を始めたが、横の二人の若い女性の会話がどうにも気になって続けられなくなった。
 二人の会話は確かにはずんでいるのだが、人生に対する積極さが感じられないのだ。あらゆることを直感とフィーリングだけで判断しているらしく、迷っている、本当は人生経験が不足しているので自信がもてないくせに、迷っていることに意味があると思い込んでいる(たぶん、そのことに本人は気付いていない)。
 「なーんか、違うんだよね」「そういうことってあるある」といった会話が延々と続く。
 原因は自分にあるのに、他人(対象、相手)に原因を求めているのだ。
 京都で乗り換えて、太秦で降りた。
 映画村も来たことがなかったので、太秦は初めてだった。
 知人の運転する車で嵐山へ向かった。
 知人は嵯峨野で生まれ育った人なので、土地勘はバッチリである。
 知人の友人の敷地に車を止め、あとは徒歩。
 観光客の多い渡月橋を渡って、嵯峨野方面へ。
 最初の目的地は二尊院で発見された吉田光由の墓を見ることだったが、あちこち寄り道しながら向かった(常寂光寺では『塵劫記顕彰碑』など)。
 途中でにわか雨にも見舞われた。
 吉田光由の墓は、吉田一族の墓石群の中にあった。碑面からは判読できない。台石のあたりに刻まれた、これもかなり磨滅した文字の中に、算学といった文字が入っていたという。過去帳にも記載があるらしく、少なくとも吉田光由が京都で没したことは間違いないらしい。
 昼食のにしん蕎麦が美味かった。
 再び知人の運転で嵐山ドライブウェイへ。
 「菖蒲谷隧道(しょうぶだにずいどう)」を見るためだ。光由が掘った灌漑用水のトンネルだ。
 同じく光由が作った人造池「菖蒲谷池」周辺は、公園になっていた。しかし、隧道へと水が落ちて行くあたりは、立ち入り制限地区だった。
 取水口の近くまで行くと、静かな山の中で水音が響いていた。400年近くが経過した今でも、北嵯峨一帯をうるおしているのだ。光由の技術力の高さを感じた。
 知人と一緒に日文研(国際日本文化研究センター)に行き、いきなり懇親会から参加した。
 会場にふさわしく格調高い研究者ぞろいで、10年前の私だったら、重圧で逃げ帰って来たかもしれない。
 しかし、幸い社会人入学してからの私は、どうにかこうにか研究者としての活動を続けてきたので(つまり論文を書いたり学会発表したりしてきたので)、専門分野は異なっても、胸を張って会話できる。
 夜も更け、知人は帰宅したが、明日は終日研究会に出席してくれる(心強い)。
 私はライトアップされてムードたっぷりの日文研ハウスに宿泊する。

11月11日(日)「角倉研究プロジェクトで講演・・・の風さん」
 昨夜は6時間も寝た。しかし、それ以外の時間は、ひたすら講演スライドのリファインに注いだ。なので、疲労はとれていない。
 天気予報通り、朝から冷たい雨が降り出した。
 こうなると日文研は、冷え切った入れ物と同じだった。年配者の多い研究会なので、けっこうつらい。交渉して、やっと暖房を入れてもらえた。
 午前中に1件、昼から1件の講演があって、私は最後だった。
 いずれも時間をたっぷりとっているので、質疑応答の時間も十分ある。
 ユニークな2件の講演に続いて、私もユニークな話をします、と切り出した。前の二人は座ったままの講演だったが、わたしは終始立って話した。それだけでも異色だったろう。
 研究者の前だったので、思いっきりマルチでハイレベルな話し方をした。マルチで、という意味は、視点(スタンス)が多いという意味だ。
 私の講演内容は、吉田光由から始まった和算が、その後、どのように発達したかというものだが、歴史的、数学的、技術的、人間的、経営学的視点からコメントしていった。
 そうやって各界のオーソリティを煙に巻いてやろうとしたのだが、敵もさる者、ハイレベルな質問の矢をはなってきた。しかし、大丈夫、こちらの研究もハンパではないのだ。
 調査と勉強ばかりで、さっぱり小説が書けないできた、これまでの成果が、こういうときに発揮された(笑)。
 お陰で、持参の本も売れ、私は自宅に凱旋できた。
 ところで、今夜の講演の最後で、私は母のことに触れないわけにはいかなかった。
 今日は母の92回目の誕生日である。
 講演の結びは、「『塵劫記』から始まった歴史は宇宙のように雄大だが、人(母のこと)の一生も雄大」だった。

11月12日(月)「母が笑った・・・の風さん」
 冷たい小雨が降るあいにくの朝だった。
 昨夜から今朝にかけて真剣に執筆して、ようやく短編原稿が完成した。
 メール送信を完了したのは、今朝の4時!
 締め切りを1週間延長してくれた編集者に感謝である。
 2時間だけ仮眠して、家を出た。
 名古屋駅新幹線改札口前で長女と落ち合った。
 二人で母の見舞いに行くのである。
 長女がコーヒーやお菓子を持ってきてくれたので、重たい気分にならずにすんだ。
 東京駅で昼食にすることにし、在来線のある構内のイタリアレストランに入り、パスタランチを注文した。野菜をメインにした料理で、なかなか美味だった。一緒にワインを飲めたらもっとよかったろう。
 東北新幹線の車中でも、長女に先週見舞ったときの母の様子をしっかり説明した。
 なぜなら、いきなりやつれた母の姿を見たら、ショックだろうと思ったからだ。
 郡山駅まで兄が迎えに来てくれて、そこから病院へ直行した。
 何度も何度も話していたので、長女のショックはいくらか緩和できたのではないだろうか。
 はっきりしない意識の母に、長女は早速持参のリラックマを見せた。
 反応した! 母が反応した! リラックマの黒い二つの目が視野に入ったのだろうか。赤ん坊をあやすときの女性の笑顔を、リラックマへ向けたのである。
 先週は一度も見られなかった表情だった。
 母の家でメールチェックしたら、驚くべきことに『江戸の天才数学者』の4刷決定通知が届いていた。当初目標の1万部超えである。
 こうなったら、何が何でも半年で5刷まで到達したい。

11月13日(火)「大活躍の長女帰る・・・の風さん」
 今回、母の家は久しぶりにガスも通ったので、昨夜は風呂に入ることもできた。
 しかし、家は冷えきっていて、体の芯まで凍りそうだ。
 今日の母も相変わらずだった。肺炎のために呼吸が苦しく、酸素吸入が必須である。
 非常に苦しいのは、腎臓の機能が低下していて、オシッコが出ないことだ。点滴で薬や栄養を送り込みたいのだが、それができない。枯れ木のような腕や、むくんだ足に針を刺すのはきわめて難しい。
 もともと悪かった心臓が、こういった事情が負荷となって、2倍近く膨れ上がっている。
 痰がからんで苦しんでいるときの母の姿は直視できない。
 リビングで母の干支である猿のぬいぐるみ(長女がプレゼントした)を発見した長女が、今日はそれを持ってきて母をあやした。
 すると、また母が笑顔を見せたのだ。
 さらに、隣のベッドで治療を受けている患者が、くちびるにリップクリームを塗ってもらっているのを目にして、母にもしてやることを提案した。
 売店で買ってきて、長女が塗ってやると、口紅を塗られたような快感があるのか、母の表情が和んだ。
 今回の長女の活躍には、目を見張るものがあった。
 その長女に、病院で見かける3匹の猫(ちび助そっくり、ペコそっくり、シルバーの色違い)を見せることができてよかった。
 今日で帰る長女をバスで駅まで送り、私はバスで母の家まで帰った。
 昨日送った原稿は、依頼枚数より1枚多かったが、それで了解された。

11月14日(水)「母の家までの真っ暗な道・・・の風さん」
 兄に送ってもらい、朝からずっと母の看病をした。
 わずかな快方の兆候でもないかと、目を皿のようにして観察していても、むなしい努力だった。
 午前中はほとんどウトウトしている母だったが、ときどき悪夢を見ているらしく、悲しい表情をする。母を苦しめている何者かをやっつけてやりたいが、私にはその力がない。
 ただ、還暦近くなった自分をかえりみて、「お母ちゃん。あの世でちょっと待っていてね」と無言で語りかける自分に納得するしかなかった。
 午後、兄がやってきた。
 今日は、やっと順番が回ってきた老人ホームの担当者が、実地調査にやってくるのだ。
 夏の骨折で介護認定が2から4に上がっていた。それが、母の待ちの順番を一気に縮めたのだ。
 もう半月早かったら、すんなり合格して、温泉付きの老人ホームに移れたかもしれない。しかし、肺炎になった病人を、ホームは受け入れてくれないのだ。
 日頃はつんのめるほど前向きな私も、残念だ、とため息をつくしかなかった。
 とはいえ、今日は心を鬼にして「肺炎が治ったら、よろしくお願いします」と言わねばならない。
 若い男女の担当が、やってきた。
 リーダーの女性と目が合って、心が通った気がした。こんなときに男女の出会いを感じるとは不謹慎な! 人間とは悲しい生き物だ。
 担当者は母に声をかけ、看護師の事前打ち合わせ通りの意見を聞き、特にガッカリしたような態度は見せなかった。
 「それでは、今回は保留ということにしましょうね」
 ご破算にならずに済んだ。
 夕方になって、私は兄の迎えを断って、病院から母の家まで歩いて帰った。
 真っ暗な田舎道を懸命に歩いた。
 およそ50分近くかかった。
 動いていることによる発熱を頼りに、コートなしに歩ける最後のチャンスだったかもしれない。
 
11月15日(木)「厳しい現実の中でもプロモーション活動・・・の風さん」
 兄と一緒に病院へ行った。
 昨日の昼間うまく注入できなかった点滴の残りが、昨夜できたそうで安心した。
 今日は、看護師の腕が優れているのか、すんなり点滴の針も刺さったようだ。
 こういった状態が長く続けば、また母の強靭な生命力で、病状が回復していくかもしれない。
 しかし、単に長引くだけでは、むしろ反対に衰弱して、苦しみを重ねたあげく、死期を招くだけだ。どちらへなるか全く分からないだけに、家族もつらい。いや、本人はもっとつらいかもしれない。それが認識できない認知症患者だけに、はたで見ていてかわいそうである。
 病状に大きな変化がないことを確認し、そして勝手に、長期戦になって回復の機会が来ることを祈りつつ、再び私は帰宅することにした。
 眠っている母へは「また来るからね」と無言で告げるしかなかった。
 兄に郡山駅まで送ってもらい、お土産を買ってから東北新幹線に乗った。
 東京では、SJO社へ寄って絶版処置関係の打ち合わせ、Y新聞社とM新聞社の人に会ってプロモーションをやらせてもらい、最後に東京駅近くの友人のカフェバーに寄って、近況を伝えた。
 主に母の看病の話をしたため、友人のパートナーとはあまり話ができなかった。
 そんな最中に旧職場からケータイに電話が入り、ちょっと仕事の話をした。
 帰宅したら、郵便物がたくさんたまっていた。
 それらをゆっくり見るゆとりもなく、ワイフにその後の様子を説明した。
 
11月16日(金)「留学生たちの案内・・・の風さん」
 本社の駐車場にミッシェルを置いて、駅まで徒歩で向かった。
 電車でやってくる慶應大学大学院の学生たちを迎え、本社まで案内した。学生たちの大半は留学生で、国籍はバラエティに富んでいる。英語がちゃんと話せたら、面白い話がたくさん聞けるのだろうが、残念ながら力不足。
 最初に、ギャラリー(製品展示室)を見学してもらい(各スポットではボタンを押せば英語で解説してくれるから楽)、その後、マイクロバスで製作所へ移動し、工場見学してもらった(ここでは、特別に英語でのガイドを社員に依頼した)。さらに、技能研修所に移動し、主に技能五輪のための鍛錬をしているところを見てもらった(ここでは、見学者の中の英語のできる人に臨時の通訳になってもらった)。
 留学生たちが、現場の人たちがかぶっている帽子がカッコいいと言って欲しがったが、すぐに上げることはできなかった。今度買って日吉まで持って行ってあげよう。
 最後は、駅まで学生たちをマイクロバスで送ったが、私は引率の先生と本社の喫茶室で、1時間ほど情報交換した。先生とは親しさせてもらっている。
 今日は、これだけで1日が終わったが、昨日までの重たい気分の日と比べれば、大いに気が晴れる。元気が出てきた。
 帰宅して、中日新聞から依頼のエッセイ原稿に取り組んだ。

11月17日(土)「エッセイがやっと完成・・・の風さん」
 いつもの執筆パターンになった。疲れたらすぐダウンし、目覚めたらまた続きをやる、というやつだ。昨日が締め切りだったが、できなかった。こうなると、できるまでやるしかない。
 今朝の4時から8時まで仮眠し、そこから再び元気を出して執筆した。
 外は雨である。
 心配して、中日新聞の記者からメールが来てしまった。
 ちょうどできたところだったので、エッセイをすぐに送った。
 命拾いしたような気分だった(笑)。
 とはいえ、明日は日商簿記3級の試験なので、続けて試験勉強である。
 テキストと問題集があるが、どこまでやれるだろう。
 午後もまた2時半から4時までダウンしていた。
 愛工大大学院から手紙が来て、来年も非常勤をやらしてもらえることがわかった。
 ありがたい。
 日本推理作家協会から恒例のハガキエッセイの依頼があった。
 『江戸の天才数学者』を宣伝できるような内容のエッセイを書こうとたくらんだ。
 とはいえ、試験勉強、試験勉強。

11月18日(日)「母、逝く・・・の風さん」
 結局、テキストを最後までやり終わることができないまま、またダウンしてしまい、それでも夜明け前に目覚め、続きをやっていた。
(このペースだと、行きの電車の中でもやることになるな)
 と思っているときに、ケータイが鳴った。
 ……。
 兄からだった。
 母が死んだ。
 これ以上苦しめたくないという気持ちが強かったから、覚悟していた。もちろんあんな状態でなかったなら、100歳でも105歳でも生きられる心身の強さをもっていた人だった。すべては認知症が、母の死を早めたのだ。それに気付かなかった私たちは、それを止めることができなかった。そのことだけは悔しい。
 8年前の父のときと同じように(福島で密葬をし、納骨は愛知で)やろうと兄と決めたので、あわてる必要はなかった。
 兄に断りを入れて、私はとにかく簿記試験に向かい、ワイフも自分の用事を先に済ませることにした。
 行きの電車でもテキストの勉強を続け、受験会場でも開始前までテキストをにらんだが、最後までたどり着けなかった。
 試験問題は難しかった。
 分量も多く、右手が不自由な私には、事前に作戦が必要だった。
 渡されたメモ用紙に書き込む仕訳は、記号化しておく必要があった。それでも数字だけはきれいに書かなければいけないが……。
 合格ラインにはほど遠い結果になった。
 試験会場を出てすぐ兄に電話した。
 通夜は明後日(火曜日)、告別式は21日(水)になったという。
 私は家族へ電話やメールで、その日程だけを伝えた。
 昼食も摂らず帰宅した。
 ワイフもほぼ同時に帰ってきた。
 明日(月曜日)、長男以外がそろって出発し、長男は明後日京都から福島へ向かうことが決まった。
 会社へファックスやメールで弔事を連絡し、個々人からの弔意となる香典や弔電、参列などをすべて辞退することを伝えた。すべて、父のときと同じやり方だった。
 簿記試験は失敗したが、母の訃報は全く関係なかった。
 たまりにたまった雑務を片付けながら、福島へ出かけるための準備を並行して進めた。
 心の準備はとっくにできていたから、迷うことはなかった。

11月19日(月)「母と人生を共有できた家族の幸せ・・・の風さん」
 こんなときにと思われるかもしれないが、日本推理作家協会の会報のためのエッセイを書き上げ、投稿はがきにプリントした。我ながらまともな出来である。
 それからは、昨夜立てた計画通り、粛々と行動していった。
 名古屋駅のみどりの窓口で切符を買うため、私が1本早い電車で出発した。レンタカー含めて、福島まで4人分を買うので、けっこう複雑である。エクスプレス予約もある。今日だけで交通費は約11万円である。
 名古屋在住の長女、遅れてきたワイフと次女と合流して、13時半発ののぞみに飛び乗った。昼食は車中。
 寝不足で頭が痛く、おまけに鼻までむずがゆくなってきた私は、頭痛薬と花粉症の薬を飲み、ケータイに入れてあるEXILEの曲をミニヘッドフォンで聴きながらしばしウトウト。
 東京駅で乗り換えの間にお土産を購入し、15時40分発のやまびこに乗ろうとしたら、トラブルで列車の運行が遅れていた。
 結局、約40分前に出るはずのやまびこが、私たちが乗ろうとしたやまびことほぼ同じ時刻で出発することがわかり、それに乗った。
 郡山駅でレンタカーを借り、兄貴の家で夕ご飯をごちそうになって、ようやく母の家に入ったのは、9時過ぎだった。
 以前、亡父の部屋だったところへ、母の遺骸が安置されていた。亡父も安置されていた同じ場所同じ位置だ。
 納棺師の手で美しくメイキャップされた母の顔は、10歳以上若返ったようだった。美しいだけでなく、穏やかな表情になっていたので、救われた気がした。
 それでも、鼻の奥がつんとして、拭いても拭いても涙があふれてくるのは、数えきれないほど積み上げてきたハッピーな思い出が、もうこれ以上積み上げることができなくなったという、冷然とした事実に圧倒されているせいだろうか。
 遅かれ早かれやってくる現実。逆縁でないという、本来は幸運にもかかわらず、容易に受け入れられない心の弱さ。母の認知症にもっと早く気付いて、適切な治療をもっと早く開始していたら、という今更どうしようもない後悔。
 そういった諸々の現実の前で、無力であることの悲しさが、母を失った悲しみをいや増しに増幅するのだ。
 母と共有した人生は59年である。十分長期間だったじゃないか、と思いたい。兄貴は私より10年長い69年である。家内は32年近いし、長女も25年、長男は23年、次女だって21年もある。
 この途方もない長い年月を、幸福だったと思わずにいられようか。
 
11月20日(火)「通夜式・・・の風さん」
 母との思い出があふれる実家に着いたので、昨夜は就寝が遅くなり、今朝は皆寝坊した。
 朝食は、近所のスーパーで昨夜買っておいたパンである。
 斎場へ移動するのは午後なので、それまでに母の形見になるものを家族で物色した。今日は装飾品である。あまりにも品数が多くて、より分けるのは困難だった。時間がかかる。
 昼過ぎに長男が郡山駅に着いたので、次女と二人で迎えに行ってきた。
 葬儀屋が到着して、母を皆で旅装束にしてから納棺した。先週、長女が病床の母のために持ってきたぬいぐるみ2つと、母が作ったぬいぐるみが母の体を左右からはさんだ。
 それから、斎場へ移動した。
 亡父の時と同じ斎場なので、何となく安心感がある。
 ひと晩過ごすので、色々なものが用意されている。
 祭壇もしっかりできていた。会社から花飾りが2つ提供されたので、家族だけの密葬を華やかなものにしてくれた。
 若いお坊さんが到着し、朗々たる声で読経してくれた。
 食事となり、未成年者はいないので、アルコールも入って宴会のように盛り上がった。
 私は酔っ払ってしまい、早々とダウンした。
 日付変更線を過ぎたころ、運よく目が覚め、入浴してから、ビジネススクールの予習に取り組んだ。
 長男も大学のレポートがあるらしく、狭い控室で二人でパソコンを2台動かした。
 母の亡骸を守る斎場の夜はとっぷりと更けていき、長男が3時ころ、私は4時ころに母のそばに敷かれた布団に横になった。が、数日前から痛み出した右の首と肩が、目覚めたように私を襲ってきた。どのような姿勢をとろうとも、痛みから逃れることができず、悶々としているうちにやがて早い朝が明けた。

11月21日(水)「母の家を少しでも長くこのままに・・・の風さん」
 おそらく正味1時間程度しか眠ることはできなかった。これまで何度も五十肩になりかかったが、こんなに真剣に痛いのは初めてだ。
 右腕から肩、首のあたりをさすりながら、母の棺の透明な窓をのぞいてみると、やすらかな顔があった。
 気が付くたびに線香を上げているが、長いやつを3本、盛大に火を付けて立てた。
 睡眠不足ではあるが、昨夜、夕食後にダウンしたときの睡眠が3〜4時間くらいあったと思うので、今日はこれから問題ないだろう。
 昨夜の残り物でも家族全員の朝食には十分すぎるほど多かった。
 空は晴れ渡り、非常に好い天気だ。
 予定の午前11時からいくらか遅れて本葬が始まった。
 昨夜の通夜よりもずっと長い読経だった。お坊さんは同じ人で、実に美声である。終わりごろにはおなじみの般若心経もあって、胸の中で一緒に唱えてみた。何となく心がホッとした。
 出棺前に最後のお別れがあり、母の棺に花をどっさり追加した。
 さまざまな儀式が続き、そこに家族全員がいることの幸福を、私は何度も何度も感じる。
 3人の孫たちも、皆おとなになっていて、祖母との記憶はハンパではない。
 私自身、祖父母の記憶がほとんどないため、よけいこの幸福を実感するのである。
 そして、92歳という、まずまずの長寿をまっとうできたことにも、けっして文句は言えないと思う。
 それにもかかわらず、涙があふれてくるのは不思議だった。
 兄夫婦と私が霊柩車に同乗して、火葬場へ向かった。
 途中、母との思い出がぎっしり詰まった場所を通りながらのドライブだった。
 棺が炉の中へ入る瞬間は見ていられなかった。かたく目を閉じて合掌していた。
 昼食の弁当をなるべく明るく会話しながら食べて過ごした。
 火葬場の外は木枯らしが吹いていたが、その中に母の体は巻き込まれるようにさらわれていくのだ。
 父のときと違って、お骨の量は少なかった。
 夏に骨折した大腿骨をつなぐ2本のピンが、兄の記念になった。
 まだ温かい骨箱を抱いて、帰りはマイクロバスに乗った。
 3人の子供たちは、郡山駅から新幹線で先に帰した。同時にレンタカーも返却した。
 兄夫婦と私たち夫婦は、一緒に外で夕食を摂ったが、東海道新幹線に乗り換えた長女と、何度もメール交換して道中の無事を確認した。最後は、クイズになって、楽しんだ。家族の笑い声は亡くなった母をとむらう挽歌だ。
 母の家に、母のお骨と私たち夫婦が落ち着いた。
 ずいぶんと遅くまで、家内と母の思い出を語り合った。その最大の成果は、この借家である母の家を、1日でも長く借り続け、時間をかけて整理しようということだった。短期間での整理は、ほとんどの遺品を廃棄することになりかねないからだ。長女からもメールがあったが、母の家に飾られている遺品は、家の一部になっていると同時に、家と一緒に思い出になっているのだ。そのためには家賃が必要だ。家賃のためだという思いは、私の執筆エネルギー、モチベーションにつながる。

11月22日(木)「6個のカバンと一緒に帰宅・・・の風さん」
 母の家を少しでも長くこのままに、と昨夜家内と結論したことで、二人の気持ちは驚くほど軽くなった。
 遺品の整理はほどほどにして、帰宅することにした。
 それでも一人が持つカバンは3つである。
 兄に郡山駅まで送ってもらい、夕方の新幹線に乗った。いつもは空いている東北新幹線が、非常に混んでいて、自由席に家内しか座れなかった。
 東京駅でコインロッカーにカバンを3つ預け、八重洲口からいったん外へ出た。
 高校時代の友人が雇われマスターをやっているカフェバーに寄って(入り口で銀座のクラブのママさんに何年ぶりかでバッタリ会って驚いた)、40分ほど、ワインを飲みながら歓談してから、東海道新幹線に乗り換えた。
 昼時点でもうグリーン車しか座席指定はできなかった。大きな荷物が6個もあったから、グリーン車でよかったのだ。
 帰宅したのは午後10時過ぎである。
 次女が昨夜帰宅していたので、ちび助とペコは元気だった。
 大量の荷物を片付けるのに、かなりの時間を要した。
 悲しいことがあったのに、やることがたくさんあると、忘れていられるのは不思議だった。

11月23日(金)「ビジネススクールの予習・・・の風さん」
 心の中にぽっかりと穴があいていた。
 それでもやらなければいけないことはたくさんあった。
 打ち合わせはできなかったが、お寺にお土産を持って行った。
 やっと、昨年お世話になったヘルパーさんに母の死を電話で告げることができた。今度、福島へ行ったときに挨拶に行きたい。
 あとは、明日から始まるビジネススクールの新しい科目の予習である。
 既に、福島の斎場で1回ケースを読んであったので、抵抗なく準備にかかれたが、福島でアマゾンに発注したテキストはまだ届いてなかったから、それだけが不安材料だった。

11月24日(土)「日常が始まった・・・の風さん」
 もう何度も繰り返しているビジネススクールへの通学である。母が死んだからといって、その行動に変化はない。
 名鉄から地下鉄に乗り換え、下りた駅で昼食のパンとコーヒーを買い、講義室のいつもの席について、アプリルを立ち上げた。
 今日はケースが一つだけだったから楽だった。
 明日のためにまた今夜大変だろうと考え、名古屋駅まで歩かず、帰りも地下鉄に乗った。
 
11月25日(日)「ビジネススクールの二日間を乗り切った・・・の風さん」
 今回の科目の評価ではレポートの配点が40%と大きかった。授業でいくら発言したり、グループ発表で貢献しても、へぼなレポートを出したらアウトになる。今日は往復の名鉄車内で、レポートの課題となっているケースを読んだ。
 今日の講義が終わったところで、「けっしてワイロではありません」と断りながら、先生に『江戸の天才数学者』を贈呈した。
 今夜は名古屋駅まで歩いた。
 そのせいか晩御飯のカレーライスが抜群に美味かった。
 
11月26日(月)「久しぶりの会社・・・の風さん」
 朝から雨だったが、ミッシェルに乗り込んだら、電波時計が不思議にも直っていたので、何となく新鮮な気分を感じた。
 研修所に出社するのは久しぶりである。手続きがたくさんあって、ずいぶんと時間がかかった。
 何となく私の気持ちを察して同僚たちは私に接触しないようにしている気がした。
 今はそっとしておいてもらうのが一番だ。
 帰りにミッシェルに給油し、灯油も購入し、買い物もして帰宅した。
 やっとビジネススクールのテキストが届いていた。
 中日新聞のエッセイのゲラがファックスされていたので、その修正もした。エッセイが掲載されることをフェイスブックで予告もした。
 毎日気をゆるめることができないので、母の死を悲しんでいる余裕などない。

11月27日(火)「知人に母の死を報告・・・の風さん」
 朝、目が覚めたら、昨夜手直ししたエッセイのゲラをさらに直したくなった。
 それで、書斎に飛び込んでパソコンを立ち上げ、急いで中日新聞にメール送信した。
 家を出るときは小雨がぱらついていた。
 午前中、会議に出席し、昼休みに外出した。銀行に寄り、次に喫茶店で個展を開いている知人を訪ね、油彩画を鑑賞しつつ、母の死を報告した。
 「本人が一番生きようと苦しんでいる姿を見るのはつらかった。だから、今は、母が死んで、お疲れ様、ご苦労さま、そう言ってあげたい」
 私の正直な気持ちだった。死んでほしくないと思うのは家族の共通した想いだろう。しかし、家族だからこそ、その死を誰よりもしっかりと受け入れることができるのだ。
 来月開催されるワイフのトールペインティング教室の作品展の案内ハガキを渡して知人と別れた。
 今朝の雨模様はきれいに消えて、青空が広がっていた。
 午後、グループ会社の人と簡単な打ち合わせをした。
 定時後は戸締り当番をしたが、休みがちだった私はこれから当番の日が多い。

11月28日(水)「きれいなエッセイ欄・・・の風さん」
 中日新聞にエッセイが掲載される日だった。
 新聞受けから朝刊をとってきて確かめると、きれいな挿絵が入った印象的な欄になっていた。うれしかった。
 出社途中、コンビニで3部購入した。エッセイの舞台となった京都の知り合いに送るためである。
 仕事を始めてまもなく、新聞を読んだ先輩からケータイに電話があった。
 午後、来週の避難訓練のための初動対応訓練があった。
 それが終わってから旧職場へミッシェルで向かった。
 買い物をして帰宅した。
 今年も大学の教官公募に応募していたが、「不採用」通知が届いていた。現実はやはり厳しい。
 夕食後、喪中ハガキの印刷をした。大量にあるので、まだ一部である。

11月29日(木)「焦って帰宅・・・の風さん」
 ワイフは早朝から東京へ出かけた。トールのセミナーのお手伝いである。
 あまりにも早い出発だったので、起きて駅まで送ってあげることができなかった。
 出社途中で、昨日の新聞を3通の郵便物にして京都へ送った。
 午前から午後へかけて会議や打ち合わせが続いた。
 それらが一段落したところで、ケータイにワイフからのメールが入っていることに気付いた。
 今朝の出発直後のメールだった。
 「ストーブをちゃんと消して出かけてね」
 当然の指示だった。
 しかし、私が家を出るときは、まだ次女が部屋で寝ていた。起きてきたとき寒いだろう、と私はストーブをそのままにして出発していた。
 それで、気になって次女にメールしたら、学校にいる次女から返信があった。
 ストーブの火がそのままになっているだけでなく、まだワイフが家にいたと思い込んで、玄関の鍵もかけずに出てきたという。
 ワイフの車が車庫にあったので、離れでトールをやっていると次女は思ったという。
 (ストーブ、つけっぱなし。家の鍵はかけていない……)
 急に不安になってきた私は、急いで帰り支度をして、ばたばたと退社した。
 有料道路をミッシェルでぶっ飛ばして、自宅に着いてみれば、のんきな猫が2匹、留守番していた。
 我が家は無事だった。
 ワイフは遅く帰ってきたが、家が危険にさらされていたことは話さなかった。

11月30日(金)「先の話ばかり・・・の風さん」
 来週の防災訓練のための練習をやった。私はほとんど休んでばかりだったので、誘導班として、今回はあまり準備ができなかった。
 それでも、今日の練習で、いくらか安心した。本番は3日(月)である。
 実は、ちょっと面白いことが起きていた。
 東善寺の村上泰賢師が作家の童門冬二氏と対談するのだが、司会は高橋英樹である。
 そこで、村上さんへ高橋英樹と私の兄が幼馴染だとメールしたら、面白がってくれ、会った時話してみるから、もう少し詳しい話を教えてほしいとメールしてきた。
 喜んで追加情報を提供した。
 対談はBS-TBSで放映されるのだが、収録は来週の4日(火)である。
 こちらも楽しみである。
 月刊「東京人」から依頼されている原稿の下書きをした。お陰で先が見えたぞ。出版は来月末だ。

2012年12月はここ

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